「自治」か「私物化」か
「自治」か「私物化」か
最近話題の日本郵政の社長人事について、植草一秀氏がブログの中で竹中平蔵氏の主張を批判している。(2009年5月22日 (金 )鳩山邦夫総務相の真価が問われる日本郵政人事)
すなわち、竹中氏は「西川氏(現日本郵政社長)に、経営のすべて、民営化のすべてが委ねられ」ており、「民営化とは、民間の判断に任せることであり、経営判断の問題に政治が口出しすること・・・は、根本的に誤っている。」 と主張するが、これは「日本政府が100%株式を保有する、完全な国有会社」を「日本政府ではなく、日本郵政自身に完全に委ねようとする」点で「私物化」の論理であると植草氏は痛烈に批判する。
この議論における竹中氏の主張をながめていて、既視感に襲われるのは私だけではないだろう。
我々の「学長任命処分取消請求事件」における、被告(国)側の主張が、これとそっくりではないか!!!
曰く「文部科学大臣が、何らの根拠もなく学長選考手続きにおいて投票用紙のすり替えがあったかもしれないと憶測したり、高知大学学長選考会議において第一結果と第二結果の両方を総合的に判断して決めるとする等の選考方針が決定されたことは不当であるといった理由で、申し出に係わる学長候補者の任命を拒否するようなことがあれば、それこそ大学の自治に対する不当な国家権力の介入として、大学の自治の本質を侵害することにもなりかねない」(国側主張)。
一方は、国の介入は「民営化」の趣旨に反するという主張、他方は国(文部大臣)の介入は「大学の自治」に反するという主張。この二つの論理は奇妙なほどに通っている。そして、私たちが、行政訴訟における国側主張に「大学の自治」ということばが出てきたのを見たときに感じる違和感の正体もここにある。
簡単に言えば、国家権力の介入をできるかぎり排除することは、確かに「自治」が成り立つための主要な要件の一つだが、それがイコール自治というわけではないということである。すなわち、現状の高知大学において、文部科学大臣による任命権という最低限度の(そして最後の)チェック機能が働かなかった場合、そこにもたらされるのは「自治」ではなく、「私物化」に他ならないことが、日本郵政において起こっていることを参照してみると実に明確に理解できるのである。
日本郵政と大学という二つの異なった組織で起こっていることが、これほど似通っているのは偶然ではない。小泉=竹中路線の集約点は言うまでもなく、郵政民営化であり、その路線が大学教育に適用されたのが国立大学の法人化である。したがって、現状の大学の「私物化」も相良祐輔という特異なキャラクターと学長選考規程の制度的欠陥がもたらしたものであると同時に大学法人化によって構造的にもたらされたものでもある。
郵政事業ほどには国民の注目を集めてはいないが、私たちの戦いも「国立大学」という国民の共有財産の「私物化」を許すのかどうか、というすべての国民にとって極めて重要な意味を持っているのである。


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